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Siedlung
ジードルンク

第一次大戦後のドイツにおける、公的機関の主導あるいは援助による集合住宅の呼称。
1966年に『インターナショナル・スタイル』のなかでH=R.ヒチコック(Henry-Russell Hitchcock)とP.ジョンソン(Philip Johnson)は、特別に1章を割いてジードルンクについて述べている。近代都市計画において、良質なジードルンクの供給は、重要でかつ緊急を要する課題だった。急激に増大していく労働者の住宅確保のためには、国または州といった公共機関が関与して安価な住居の大量供給を行う必要があったのである。従って、ジードルンクは単なる「集合住宅」ではなくコミュニティの創出であって、都市計画の中に位置づけられる。また、この計画には当時第一線で活躍する建築家が関わったことも重要である。
当時のワイマール共和国では、各州がジードルンクの建設に精力的に取り組み、近代建築がこの課題に応えた。もっともよく知られているのは、フランクフルト・アム・マインである。1925年より30年まで建築部局で指導的な立場にあった建築家エルンスト・マイ(Ernst May)を中心に大規模なジードルンクが次々に実現された。これらの最小限住宅のためのキッチン 「フランクフルト・キッチン(Frankfurterkueche)」は、システム・キッチンの原形として有名である。グロピウスのかつてのパートナーであるアドルフ・マイヤー(Adolf Meyer)も、1926年よりエルンスト・マイの元でフランクフルトのジードルンク計画に関わっていた。当時のヨーロッパで近代建築に取り組む者は、ジードルンクと無関係ではいられなかったのである。ミース・ファン・デル・ローエを責任者に1927年にシュトゥットガルト近郊ヴァイセンホフで開催された「住宅展」は、まさにジードルンクに関する展覧会であり、国内外の建築家15人が建てた33棟の住宅が、「いかに住むべきか?」という言葉とともに提示された。
バウハウスでは、1926-30年にデッサウのテルテンにおけるジードルンクを手がけた(1926-28:グロピウス、28-30:ハンネス・マイヤー)。これらの建物の多くは今でも使われており、近代建築の1つの象徴となっている。


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